2021.5.9
プロフィールを盛るのが苦手だし、好きではありません。
もっとも、そんな輝かしい経歴は無いのですが、例えば師事した先生方のお名前を書き連ねるのにも抵抗があります。まずどう書くのが正解なのか分からないのが一つ、「お世話になった先生」という縛りをどこまでにするかと言うのがもう一つ。
「お世話になったなぁ、、、」と思う先生は何人もいるのですが、この無精で捻くれた性格のせいで連絡が滞っていたり、iPhoneが車に轢かれた際に連絡先が日暮里の路上に散らばったままになったり、そもそも連絡をする術を知らなかったり、無闇に連絡して媚を売っているように思われやしないかと思うと勇気が出なくて送信ボタンが押せなかったり。。。全部音楽関連の先生方です。本当にごめんなさい。
そんなお世話になった先生方を並べて書く場合に、単純に五十音順で並べて「各氏に」と付ける事が憚られる気がするのです。一時期は、お気に入り順に並べてみたりした事もありましたが当然そんな事するのは御法度。決局いっそ全員書くのをやめようと思い至るのでございます。
プロフィールに書いていいのか困るシリーズでは、例えば小学校五年生の時の担任の先生だった「ツダ先生」には大変お世話になりました。ツダ先生は私のポップスやロックの耳目を開いてくれたり、初めて人前で短いアドリブを取った時にギターで伴奏してくれていたり、嘉門達夫氏を教えてくださりました。思えば現在の仕事に繋がる事をかなり教わっています。本当に、もう一度会えるものならば会いたいのですが、唯一住所の情報があった年賀状を大切に持ち歩く余り、二度目の引越しで行方が分からなくなってしまいました。
あと地元のレコード屋のオヤジ、オヤジなんていう柄ではありませんが「アートレコード」という、クラシックを中心に扱っていたレコード屋の「シゲミさん」からも膨大な知識を頂きました。残念ながらもうお会いすることはどうしても叶いませんが、つくづく何故徳島に居たんだろうという人です。
アムランが弾いたショパン=ゴドフスキーのエチュード編曲の、怪物のような盤が出たというので購入して帰って早速聴き、翌日その興奮を伝えに行くと「おっちゃんみたいにあんまり詳しくない人にも、パッと聴いて具体的にどこがどうなってるか知りたいから解説を書いて欲しい」と頼まれた事がありました。当時の自分は面白がって書き散らして読んでもらったところ、大変感動してくださったのをよく覚えています。(「おっちゃんみたいにあんまり詳しくない人にも」という表現、当時の自分はちゃんと否定したのでしょうか、、、)
何処の馬の骨とも分からぬ高校生の書いた駄文 (割とちゃんと書いていてしかも楽しい文章けれどもどう考えても高校生の文体ではなかった) のコピーを付けて割と結構な枚数をセールスしたらしいと聞いて嬉しい反面一抹の不安も感じていました。。たまーにその原稿が出て来て読み返すのですが、その度に「次は行方知れずにするまい」と保管するにも関わらず今現在行方は分かりません。
他にも色々、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を激推ししていた時分に、「先生は二番が大好きなんじゃ」と教えてくれたM先生。王道を迷わず好きと言って良いと実感させられた瞬間でした。
古典の授業中に作曲をしていたら、不意に回答するように当てられてしどろもどろになっていると「森はまた作曲しとったんやな」と見逃してくれたM先生。
そう言えばピアニストへの道を断念する決断をした時に、ピアノから完全に離れないでいる事を決めたのもM先生でした。この三例は同一人物。
思えば色々な瞬間に色々な人から大事なお言葉を頂戴しているものです。
プロフィール、本当に難しい。だったらいっそ全部嘘にしてみれば良い。
森 亮平
1992年10月3日群馬県生まれ。祖父は指揮者でもあり作曲家、祖母は歌手で、ピアニストの両親を持つ。
幼少の頃から祖父の影響で溶接を始める。中学校入学と同時に前橋タングステン (現・前橋重工) の見習いとして工場に通い始める。中学2年の夏には被覆アーク溶接を任されるようになり、その技術は前橋タングステンを「日本のゾーリンゲン」と呼ばしめる程の高さであった。
高校入学時には既に国内外5企業との契約を交わしていたが、17歳の春に失恋のショックで全ての契約を解消。たまたま入った喫茶店で流れていたショパンを聴き、自分もこんなに人の心を打つ音楽を作りたいと決意し、陶芸に没頭。溶接の技術を陶芸に持ち込むという大胆な発想で第三作目の青銅器「モロッコの暴れ馬」がアゼルバイジャンで行われた国際陶芸コンペティションで審査員特別賞を受賞する。
青銅器は陶器ではないという批判をものともせず、以降も斬新な発想での作品づくりを意欲的に続け、代表作「心で見る陶器」を発表。一世を風靡する。
この時の発言「私はこの作品を作ろうとして作ったわけではない。実際に何も作っていないのだ。しかし私がそこにあると言ったらあなた方はそこに何かを感じてくれるという事を私は知っているのです。」がタイムズ誌の表紙を飾った。
39歳で没する直前に「私は本当は音楽がやりたかったのかもしれない」と言い遺し、52年の短い生涯を終えた。
現在三重県南インド村芸術大学陶芸家非常勤講師。