2022.6.16
もう「好き」なんて表現では足りない。恥ずかしながらマトモに聴いたのは、当時それ以上ないと断言できるほどに急な仕事として作品のほとんど全曲を編曲しなくてはならなくなった時でした。
どこを取っても美しい瞬間のオンパレード。魅力的なメロディに鮮やかなオーケストレーション。Nr.11が、カミーユとヴァランシエンヌ (ヴァランシエンヌは人妻。もちろんカミーユの、ではない) の密会のシーンの二重唱。これに私の魂は芯から射抜かれてしまった。恥ずかしながら「素晴らしく美しい」以外の語彙が出て来ない。
また、ダニロ及びハンナの心情が吐露される音楽的瞬間が同パターンで二回ある。このチェロソロから始まる数秒で、もうお互いが相手への恋心を抑えられないという事を客席に伝えてしまう。
観てれば分かる。なんならダニロの方は登場した瞬間に分かる。その上、ご丁寧に音楽でも説明されるのにも関わらずまだウジウジ言っているダニロに対するもどかしさ。
そして根底にこの作品がオペレッタであるという前提から「彼にとって悪い結果が待ち受けているわけがない」というのが分かっている事の心地良さが相まった事が、この作品が大ヒットした要因なのではないかと思うほどに私のメリー・ウィドウに対する想いは拗れている。
ストーリーも分かりやすく、ほとんど飽きる事なくサラッと観られてしまうというのも魅力のうちだろう。
そしてこの度、満を辞してフルートを独奏とする「メリーウィドウファンタジー」を書くに至った。
まずフルートに対するオペラファンタジーが多過ぎるという事へのツッコミは今は置いておく。
日本国内で「メリーウィドウ」という作品が、若年層にも割と浸透している要因の一つとして「メリーウィドウセレクション」という素晴らしい吹奏楽の為の作品の功績は大きいだろう。そのせいおかげで「メリーウィドウと言えば『ヴィリアの歌』だよね!」みたいな風潮が出来ている事について私はどうしてもいただけない。いただくわけにはいかない。
もうこの際自説を乱暴に振りかざさせて頂こう。当オペレッタ中の「ヴィリアの歌」の周辺は個人的には中弛みでしかないと思っている。確かに良い曲だし、この曲が存在する意義は大いに分かるというのを踏まえた上で、周りの他の曲と比べた時にどうにも劣るという感想を私は持っている。
きっと、貴方が全曲を聴き通した時(または観通した時)、最後に印象に残っているシーンは恐らく「ヴィリアの歌」ではないはずだ。9割方、、9.5割方がそうだと思う。こんな言い方をするのも、別に「ヴィリアの歌」が一番好きだという人の事を否定するつもりは毛頭ないからだ。もし「ヴィリアの歌」がメリーウィドウの曲中で一番好きだという友達が居たとして、その人とも私は大いに盛り上がる事が出来るからである。(今の所そんな人が居ないのは私に友達が居ないからである)
実際に私は「ヴィリアの歌」のおかげで「口マンドリン(くちマンドリンと読みます)」を習得するに至った。これは人様の前で披露できるような代物ではないということは予め断っておく。
不愉快なのは、メリーウィドウをよく知りもしないくせに、吹奏楽の為に書かれたものだけを聴いて「ヴィリアの歌云々」という輩だ。
なので、今回は「ヴィリアの歌」は見えるような形で使わないと心に決めていた。万一使ったとしてもフレーズを織り込む程度にすると初めから決心していたのだ。使わなくとも十分に書けてしまうし、多分「メリーウィドウファンタジー2」や「メリーウィドウファンタジー3」に着手したとしてもまだヴィリアは起用する事なく書けるだろう。結局一度も「やっぱりヴィリア使わないとなぁ」と思わないまま今回のファンタジーは完成した。
多分「メリーウィドウファンタジー・タクティクスアドバンス」くらいまでいくとようやく「ヴィリアの起用も止むなし」となってくるのであろう。
悔しいのは、もう「これからドタバタが始まりますよ!」の典型みたいなオープニングを使わずに書けなかった事である。これについても凄く考えたのだが、メリーウィドウの名を冠する作品で、あれ以上にオープニング感のある始まり方をするのは土台無理な話だったのだ。
また、メリーウィドウ本編につきましても、ほとんど全曲分のピアノ五重奏版 (日本語詞入り) がございます。「メリーウィドウを今度やる予定があって、流石にフルオーケストラは入れられないけどピアノだけで弾くよりもある程度それっぽさを出したいワ☆」という団体様がおられましたら譜面は喜んで提供させて頂きます。何なら弾きに行きたいとまでは言いませぬ。決して言いますまい。
結局何が言いたいかと言うと、これをきっかけにメリーウィドウ の本編に触れてくれる人がいいな、と心から願っているということだ。個人的にはウィーンフィルとガーディナーの盤がオススメだ。この文章一帯がリンクになっており、頭で紹介したNr.11の二重唱はプレイリストの16番目にある。
編曲をする事が決して少なくない立場の人間からすると、編曲モノを楽しむ為には元の形をある程度把握しておく必要があると思う。但し、逆のアプローチで原曲を聴くという事もあって良い。私は「春の祭典」はファジル・サイのピアノ版 (一人で自動演奏機能をふんだんに用いるという狂気の盤) から入った。そのせいか、あまりエッジの効いていない演奏に食指は動かない。
「涙の乗車券」はカーペンターズから入った。これがビートルズの曲だと知ったのは恥ずかしながらごく最近である。結局私の中でビートルズはカーペンターズのような好印象をもたらさなかった。
随分前に書いた「小学校五年生の時の担任の先生だった『津田先生』」は、私が当時「ビートルズがあまり分かりません。やっぱりカーペンターズが好きです」と言った時に「そうか。でも先生もカーペンターズ好きやぞ」と返してくれた。これは後々の私の考え方に地味に大きな影響を与えていると思う。
今思えば津田先生はロックど真ん中の人だったように思う。今でも活動されているかは分からないが、頂いた年賀状には「美女と和牛」というバンドを組んでいる、とあった。とんでもないセンスだ。嫉妬を通り越して尊敬してしまう。私が死ぬまでにもう一度会っておきたい人トップ2の一人だ。音楽をジャンルではなく、音楽そのものとして捉えているんだろうなぁと思う。どうして教員をやっていたんだろう。機会があれば酒でもエスプレッソでも酌み交わしてみたいものだ。お酒が飲めなかったとしても私は甘味もイケる口なので問題はないはずだ。
また脱線しているが、つまるところ音楽を聴いて持った感想に正解なんてないし、それぞれがそれぞれの正解を持つという意味で、間違いもあり得ない。
「みんなが良いと言っているから良いものに違いない」という考え方は、実は私自身が陥りやすい考え方なのだが、多分そういう事ではない。
兎にも角にも「メリーウィドウを聴け!」と締めさせて頂くことに致しましょう。