「ある白い猫の思い出」四重奏版に寄せて

2024.10.4

 例えばピアノソロの曲をさらに大きな編成に、というのはよくあるケースだと思う。また、大きな編成の曲を小さな編成に、というのもよくある事だ。

 今回はどちらにもあてはまらない。

 そもそも、二重奏で書いた元の状態は本当に気に入っているし、これ以上は無いとまで言い切れはする。ただ、何かプラスするとしたらまた違った味わいになって良いという事も最初から考えていたのは事実だ。
 なまじヴァイオリンを齧ったおかげで私は「無茶な重音」を書けない。それでも二重奏版では多少なりとも踏み込んだ感はある。(といっても常識の範囲内だとは分かっている上での話です)
 結果、お二人の演奏は全く無理なく聴かせてくれるし、編曲する事を決めた上で聴き返しても「本当にそんな事をする意味があるのだろうか」と思わせるほどだった。しかし、足してみたかったのだ。それで別の結果が得られる事は間違いないし、実際そういう結果にもなったと思っている。難しい部分はそのまま残った感はあるが、世界観を少しだけでも深められる事に繋がったような気がしている。

 

 この編曲に際する私の機微は、ペペロンチーノに例えると分かりやすいだろうか。
「アンチョビがあったら入れるのに」の「のに」がマイナスにもプラスにも働かない場合の事を言っている。

 ひじき煮の油揚げのような存在かもしれない。天津飯の上に乗ってるグリーンピースとも類似する可能性がある。

 刺身に付いてくるシソの実とは違う。幻想交響曲の第二楽章のコルネットとも違う。

 551の豚まんがある時とない時……程の差は無い。BGMが流れていないバーに対する違和感ほどでもない。カフェだとBGMが無い方が好みなのに、どうしてバーだとそう思うのだろうか。なんだか部屋の照明が白色の蛍光灯のみの時のような感覚を覚える。

 ハヤシライスに振りかけてあるバジルや生クリームのような事かもしれない。

 揚子江ラーメンに乗っているのが春菊じゃない時の感じにも近いかもしれない。

 非常に脱線したが、それがいずれにせよ「余計な事ではない」というのが重要なのだ。

 私はブルックナーやマーラーのように優柔不断や中途半端な仕事で後世に迷惑をかけるタイプの作曲家ではないので、明らかな音の間違い以外は基本的に直さない。というか、そもそも迷った場合は完成させる前に何とかして正解を見つける。本番で奏者が勢い余って間違えた事を採用する場合もあるが、その場合は「自分の意見」として納得しているから、後から「元はこうだった」とか言われて直されようものなら、生きていれば激昂するし死んでいたら枕元に立つつもりだ。

 ティガー君の思い出については、もう一つの案を提示しておきたいという強い想いがあった。曲の魅力もそうだが、ある家族に愛された者の話を少しでも多くの人に知って欲しいし、少しでも多くの人に共感して欲しい。その為に「普遍化する」という意味でも、玄人向けではない編成にしてみたかったという私の願いのままに実現した「編曲」なのだ。

「切り口を変えれば基本構造が同じでも、よりファンタジックな仕上がりになる」という好例になると嬉しい。