2024.10.4
何というストレートで短絡的な韻の踏み方だろう。韻を踏んでいるだけで、意味はほとんど成していないのもまた良いのである。接続詞が「で」だとしたら成立する可能性がある。
そもそも「ケークウォーク」がよく分からないが取り敢えず、ラグタイムに類似するものと信じて話を進めることにしよう。
2024年の夏、スコット・ジョプリンと向き合った時期があった。敬愛するモリコーネ様のせいで染み付いてしまった印象を払拭して、本来のテンポ感を手に入れるべく、毎日少なくとも一時間くらいは我が家に愉快で陽気なBGMが ……私以外の者にとってはさしたる意味もなく……流れることになった。
それが思いもしない形で功を奏する事になるとは当時夢にも思わなかった。思いもしなかったのだから当然である。本当に喜ばしい事だ。
ジョプリンはイージーリスニングの「祖」と言える存在の一人だと思う。クラシックをやっている人間からすると、ガーシュウィン以上に通らなくても影響のない作曲家の代表格かもしれない。
私にとっても同じで、ラグタイムを演奏したり書いたりしない限りは、ジョプリンを知らないところでそれが人生に大きく影響を及ぼすことはなかっただろう。ただ、「ザ・エンターテイナー」を知らないとは言えず、「胡瓜が食べられるなら西瓜も食べられるだろう」的な感じでジョプリンの作品も多数接する事になった。ドーヴァー版の「ジョプリンピアノ独奏曲全集」を持っていたのも運の尽きである。
この曲は当然ながら書き下ろしで 「猫の日演奏会 Vol.2」の初回リハーサルで、何か四人でやれるような、それでいて会に適した曲がないものかと話していた時に、哲人さんが「キャットウォークのケークウォークを書いてよ」と言ったので作った曲である。
そのリハーサルの三日後にはまたリハがあったので、そこに間に合わせるつもりで、というより当然間に合うだろうと思って翌日着手し、アンコールピースにしか持ってこられないようなのが他用が押し寄せていたにも関わらず二日で仕上がった。
パート譜まで仕上げた段階で日付は合わせ当日になっていたが、心を鬼にしてグループラインに送らせて頂き、その九時間半後には池袋のスタジオフォルテで音が出た。この編成がラグタイムをやる時に普通かどうかなんて分からない。ただ、私のイメージするラグタイムまたはケークウォークがそこにあった。私はこれをきっかけに「令和のジョプリン」という極めて奇妙な屋号を背負う可能性もあるが、果たして、またこんな曲を書こうと思わせてくれるようなシチュエーションがあるものだろうか。楽しみである。
作曲の際には、以下の「ラクダイム三箇条」を設けた。
其ノ一・ジョプリンを無視すべからず
其ノ二・類似を恐れること勿れ
其の三・ひたすら陽気であれ
其の一については言わずもがな、どうして神を無視できようか。私は彼の敷いたレールの上を走るだけなのである。
其の二についても言わずもがな。どの曲も同じに聞こえてしまいかねないようなジャンルである。極度に被りを気にしていたらそもそも新たにラグタイムの楽曲を書こうとしている事すら無意味になりかねない。
其の三についても言わずもがな、である。「本質的に哀しみを背負ったジャンルだ」とかいう論調があるとして、別にそれを強く否定しようとも思わないが、個人的にはそれは「結果的に」の話だと思う。
そんな音楽が演奏者も聴衆もハッピーな気分にさせてくれるのはおかしいし、書いた本人もハッピーを提供したかったのだとしか思えない。もしそうでないのだとしたら私はジョプリンに言いたいことがある。それを経てジョプリンが「説教のラグ」という曲を書いて来た時、初めて私の意見が変わるかもしれない。
そもそも、音楽を聴いて嫌な気持ちになってもらおうなんて思う作曲家がいるのだろうか。残念ながらいる事も知っているが今は置いておく。「未聴感」を目指すあまりそうなってしまう事もあるのかもしれないが、芸大に入学して以降は「それが本当に貴方の書きたい音楽なのか?」と質問したくて堪らなくなるような曲を書くような作曲家しか周りにいなかった。同門の後輩と言っていいのかどうか分からないが少なくとも私が卒業するにあたって異常にお世話になった方の書いた朗読モノは未だに聴き返すくらい好きだが、印象に残っているのは本当にその曲くらいである。
これは批判ではないと思って書くが、作曲家本人が満足していて、奏者も満足するような曲であれば、その内容がどうであれ、その楽曲が聴衆に与える印象はある程度保証されるように思う。
私は一部の変人を相手にしているわけではなく、もっと大きな層に向けて訴えたい事があるのだ、というのは果たして言い過ぎだろうか。