2025.3.29
「〇〇を聴け」というようなタイトルのものをよく見る気がする。
よく、「聴けと言われて聴くようじゃダメなんだよ!」なんて言う人もいる。それは多分今回の話とは関係がない。でも、「聴け!」と言われた事が、それに触れる機会になれば儲け物だとも思う。「〇〇を聴け」には大きく分けると2パターンあって、〇〇の部分が既に有名なものである場合か、何だか分からない人名や、物事である場合だ。
「森 亮平」に関しては明らかなる後者に当たる。
例えば、ボランという作曲家を知らずに一生を終える音楽家は大勢居ると思う。クラシックの人も、ジャズの人も。
例えば、カプースチンという作曲家を知らずに一生を終えるジャズのミュージシャンがほとんどだろう。
自分も、自分の本当に好みの曲を書くような未だ知らぬ作曲家を知らずに一生を……と思うと悲しい。最近は今更ながら武満徹の「波の盆」に始め様々な武満作品にハマっている。西村朗の綺羅星の如き作品群にも今更夢中になっている。
そこで、逆はどうなんだろう、と思う。生来「俺の曲を聴け」なんて極めて親しい人にしか言った事がない。いや、親しい人にもそう易々とは言えない。このままでは俺の書いた曲を聴かずに一生を終える人々が減らないだろう。
手前味噌ながら、少なくとも自分は、「森 亮平の音楽」に定期的に触れていたい人間の一人だ。自分が聴きたいものを書いていると言っても過言ではない。だからこそ、もしかして自分の書いた曲を聴きたいと思う人が居てもおかしくないのではないか思ってしまう。
だからこそ「森 亮平を聴け!」なのだ。正しくは「森 亮平を聴いてみませんか?」くらいの気分なのだ。気分なのであります。
あまり関係ないかもしれないが、芸術を定義するのはホットのアイスコーヒーを頼むようなものだと思う。もちろんアイスコーヒーを温める事は容易だが。。
しかし水出しのアイスコーヒーも本当に美味しいと思う。いつか水出しのアイスコーヒーのホットと、ホットコーヒーを飲み比べてみたい。ホットコーヒーのアイスは何度も飲んでいるのでもう良いかと思いきや、水出しのアイスコーヒーはアイスのまま頂きたい事もあるので、水出しアイスコーヒーとアイスホットコーヒーも飲み比べたい。
今思えば多分水出しのアイスホットコーヒーも飲んだ事があるのだろう。意識していない時に触れた事に関する記憶が薄いのは本当に残念な事である。
作曲を本格的にやろうと決めていろいろ書いていた若かりし時に「そのメロディは聴いたことがある」と極めて近い女性の身内から言われた事がある。恐らく本人は覚えていないだろう。覚えているわけがない。しかしその日から今に至るまで、自分はそのメロディを自分の楽曲以外に見つけられていない。
今思えば、と言うのも悩み始めてから今日でもう18年近く経っているので妙な事だが、割とオーソドックスな旋法で構成された単純なメロディだったために近似性を感じられてしまったのだと解釈する他ない。ちょうどその頃は「指輪物語」や「ナルニア国物語」が流行っていて、それらには間違いなく影響を受けている……と書くと今度は「ホラ見ろそういう事だったんだ」と反論して来るかもしれない。
ただ、きっとそういう反論はこちらから機会を与えた結果生じたものに過ぎないのだ。やはりどう考えてもそのメロディがそれらの音楽の剽窃と評される理由は分からないのである。
芸術ついでに。身内というのは自身の価値観を最後まで通したがる。特に「これは美しくてこれは美しくない」「これは汚いものである」のような言い方をしないまでも、ほとんど似たような意味合いの言葉を投げてくる身内が居る。
例えばナゲセンオンラインに置いてある私の絵を例に取っても、あれはあそこの趣旨を分かった上で提供しているし、割とそれは最近 (最初にこの文章を書いたのはコロナ自粛末期でした) の御時世から生まれた価値観である事と理解している。
別にこちらはゴッホやなんか引き合いに出すわけではない。「俺の絵は俺の死後に理解されるんだ!」なんて妄言を吐くわけもない。何故ならゴッホはしっかりした基礎を持っている事が火を見るより明らかで、自分にはそれがない事を知っている。但し、思いのまま、感じるままに書いた物が何かしらの効果を産むなら喜んで提供しようという事だ。
そういうつまらない事で私はなかなか新作の絵が書けなくなってしまった。という発言をすると、今度はまた局所的に別の問題が生じるのでこの辺にしておく。
そういうわけで、絵はともかく、楽曲に関しては、聴いてみて欲しいと心から思う。酷評は心にしまって頂きたい。