2025.7.1
前回の配信から9ヶ月。色々とあり過ぎましたが、その中でも作曲面ではかなり納得のいくものを書けた期間だと思っています。その集大成となるか、というのが今回の企画。自作についてのプログラムノート的な文章を徒然なるままに書いてみます。
「ヴァイオリンソナタ変ニ長調」は、武蔵ホールでの全曲演奏は初です。加えて、自分としては珍しく初演を経て第三楽章の終結部を大幅に加筆修正したので「改訂新版初演」とも言えるでしょう。
最初に伊勢で思いついてから10年の時を経て「遂に完成した」という感じです。変ニ長調なんて弦楽器にあるまじき調性で遂に書き切ってしまいました。(第二楽章は嬰ハ短調なのでそこまで常軌を逸しているとは言い切れない部分もあります)
三楽章に分かれており、両端楽章のテーマは発案当初から出ていたものです。書き始めた頃は当然こんなにかかるとは夢にも思っていないものですから、それが頓挫して以降はこの「完成させられない第三楽章の主題」が奥歯から一、二本目の歯の付け根に挟まったトウモロコシの髭のような扱いでした。
振り返ってみると、時間を掛けた価値はあったなぁとしみじみ思う反面、10年前の自分が描いたものと今の自分が書いたものが違和感なく繋がるというのは果たして喜んで良いことなのか?とも思ったりもします。
自分の勘違いかもしれませんが、調性の彼岸を覗く事がここ最近で二度ほどありました。「オーボエとホルンとピアノの為のトリオ」を書いている時がそのうちの一回で、聴き返す度に微分音を使って書き直してみようかと思ってしまいます。絶対やりませんけど。
そのトリオを書いていた頃はどこかでヘルツォーゲンベルク現象 (聴感上、拍節が譜面に表記されている形は違うふうに感じられてしまい、そう捉えてしまうと最早本来の拍節感に戻る事が容易ではなくなってしまう状態の事を指します) を起こしてやろうと躍起になっておりましたが、そんな馬鹿げた発想とは裏腹に「平均律では処理しきれない領域」を初めて感じられた体験でした。
(※ヘルツォーゲンベルク現象を引き起こす事には成功しました。笑)
今回のヴァイオリンソナタの第三楽章がもう一回で、自分としては珍しく二小節に三日くらい掛かったのも今となっては良い思い出です。
「インカーネーション」については完全にイベント的な作品です。そもそもドートリーのリハーサルの際に東さんが「ここで花火を上げたい」「ここで撥を捨てたい」「ここで銅鑼を叩きたい」とかなり攻めた発案をされたので、それらをなるべくなら叶えていきたいと考えた流れで、せっかく銅鑼を持ち込むなら銅鑼の為の曲も書こうと思ったのが始まりです。(撥を捨てるのは無くなったみたいですし、ドートリーの曲中で銅鑼を叩く事も無くなりましたが、花火についてはサムネ上で叶えて頂きました。笑)
東さんには銅鑼に専念して頂き、ヴァイオリンの協奏にピアノが手を添えるという楽曲です。これが私の側面の一つと捉えられたらそれはそれで困りますが、面白がって書くならこういうのも好きだよという好例になればと願って止みません。
「2V-Pのためのソナタ」はその名の通り、この編成を強引に芸術音楽に持ち込まない限りなかなか相容れないであろう「ソナタ形式」に挑戦したものです。もちろん形式的にはソナタと言えるはずですが、精神的にソナタと言えるかどうかは極めて微妙です。
今回、何故久々の武蔵ホール配信コンサートをこの「2VP」でやろうと思ったか。それはもうただひたすらに前回が楽しかったからであります。楽しかったし、ヴァイオリンとヴィブラフォンとピアノという組み合わせに思いの外ハマってしまって、そうなってしまったらとことんまで突き詰めてみたいと思ったのもあります。
この編成がどうしてもポップな音に寄るのは分かっているので、その中でジャンルの境界を怖そうとしたり無視したりしてきた先人へのリスペクトと挑戦心を全面に出してみました。
第一楽章は純然たるソナタ形式。
第二楽章は割と気楽なワルツ。
第三楽章ではカプースチン先生に真っ向勝負というスタンスです。桜田氏の言う所の「痒い所に手が届く」ような音楽を目指しました。複雑化する事が必ずしも芸術音楽に近付く近道ではないというのは分かっていて (もちろん逆も然りですが) 恥を感じる暇もないような勢いで書き上げた楽章で、もちろんめちゃくちゃ気に入っています。