2025.8.24
鍼の先生から食事と健康にまつわる小冊子を渡されて、それによると今の私には黒酢が大層合っているという事が発覚して以来、料理という行為を割と積極的に行うようになってきた。
ここ数年愛読している料理書を書いておられる先生が黒酢に絞ったレシピ本を出していて、しかも、簡単なのだ。これ、大事なところ。
スープストックトーキョーのスープが好きすぎて、本家が出してくれたレシピ本をもとに私が愛してやまない「もずくとオクラのスープ」を自宅でも作ってみようとしてて目の前が真っ暗になった経験がある私にとって(それでも工程は少ない方のレシピだったんです)、「工程が少ない」というのが最重要なのだ。
「海老と豆腐の淡雪スープ」に至ってはこの後の人生の中でもし自発的にチャレンジする事があるとしたら、その時の私は今の私には到底想像もつかないような料理スキルと忍耐強さを持っているという事になるに違いない。
未来の自分よ、これを読んで笑っているという事はもうこの内容を書き連ねている今の私の気持ちなど理解できなくなってしまっているのだろう。
最近スープストックで食べたグリーンカレーにも度肝を抜かれたものだ。
「料理」に対して苦手意識がある。何故かは分からない。
誰かに自分の作ったものをマズいと言われた経験があるわけではない。
自分の為に作る気にはなれない所から、「積み重ねができていない」という意識につながり、結果的に「苦手かもしれない」と思ってしまっているのかもしれない。
運転だけではなく「かもしれない」は大事だ。
醤油味ベースの焼きそばが奇跡的に妻の好みと合致したらしく、大好評だった。(基本的にかなり手放しで褒めてくれます)
褒められるが怖いのは、「二度と同じものは作れないかもしれない」という可能性が常にある為だ。レシピを見ながら作っているので大体はそうなるとは思うだろう。しかし私の場合完璧を求めるが故に「次が今回と同じ状態にはとてもならないかもしれない」と考えてしまう。
そもそも「大さじ一杯」という表現が曖昧過ぎると思う。液体で表面張力が崩壊するまでいってしまったらそれは違うが、そこまでの間に「これで一杯か?いや、まだ達してないか?」となる時間が長い。
それは炊飯器の水加減の時にも思っている事だが、特に炊飯器は淵に水が触れてしまうと本当は目安の線のどこまで水が入っているかが分からなくなってしまうので、困る。などと考えているうちに黒酢が大さじから溢れていたりする。
まぁいいか、と思いながら醤油も「黒酢を少し多く入れたから」と少し多めに入れ、塩胡椒に至っては最近妻からようやく購入が許された電動ミルを雰囲気で鼻歌まじりに回しかけている為、どれくらいの分量を使用したかなど覚えているわけがない。
そんな状態なので、次回同じクオリティのものが作れるとは全く思えない。「それが料理だ」と言うのかもしれない。そうだとしても私は自分が信用出来ない。
それなのに、二度目の焼きそばを要求される日が来てしまった。
何度も「美味しくなるか分からない」と念を押し、副菜で出す豆腐にはキムチとラー油を掛ける事を提案し、なるべく保険を掛けて挑んだ。
結果は、食べる前から「これは美味い」と思える会心の出来になってしまった。
私は天才かもしれない。
黒酢を入れれば大抵の事は何とかなるのだ。
……しかし、どうして焼きそばの麺は、麺だけで買うほうが高いのだろう。
同じメーカーのソース付きの三玉のほうが、麺のみを二玉(当然ソース付きの三玉より量は少ない)買おうとするよりも安い。「付属ソースを使わないので申し訳ない」という気持ちが値段に負ける瞬間である。
どうしてなのかChatGPTに聞いてみようと思う。