和 巴里ノ一茶音楽考

2026.1.20

「和風」という言葉は「ジャズ風」と同様に危険だと思っています。
 兼ねてから提唱している「ジャズの語法」という言葉の用法についての私論よりも下手したら「和」は危ないとさえ思います。

 どんな曲でも三味線やお琴でメロディを弾けば伴奏がどんな状態であれ和風に思えてしまう不思議。
 私だって旅行先の土産物屋で和楽器で演奏されているジブリの音源を聞いて何となく非日常を感じているのに……いや、これはここでの例としては少し違うかもしれませんが。笑
 それなのに、西洋から見られた時に「アジア風」と一括りにされがちな中華風の響きと日本風の響きを、どういうわけか日本人は何となく聴き分けられるではありませんか。
 ホルストの「日本組曲」を見ても、いくら旋律と和声を寄せたとて、そう簡単に「和」というものは得られないというのは感じてしまうのです。もちろんめちゃくちゃ好きな曲なんですけど。

 

 絶賛公演中の「ISSA in Paris」の編曲の際、大いに「和」に向き合った、という話なのですが……

 元々、邦楽……特に雅楽が大好きで、学生時代には単位の為とはいえ「邦楽概論A及びB及びC」という授業は心からの興味で聴講し、当時は「篳篥」という漢字もスラスラ書けたものです。今は忘れてしまいました。
 また、昨年のレミゼでさらに濃くなった長崎愛の延長で、南蛮貿易やキリスト教の布教と並行する音楽文化の流入についても少なからず興味を持っていた所に、歌唱指導の田中俊太郎さんから紹介して頂いた「洋楽渡来考」という本も相まって、どんどんその方向の見識を深めていく事になりました。
「洋楽渡来考」は装丁も美しく、それを持って歩き回っている人間を昨年(2025年)の11-12月に街中で見かけていたとしたらそれは十中八九私です。
(田中俊太郎さんが「面白い本あります」と紹介してくれる本は、本当に面白いのですが、今の所それぞれ例外なく買うのに万単位するか絶版になっているかのどちらかなのです。)

 さらに、三木稔先生の「日本楽器法」という名著もございます。これまた譜例を演奏してくれているCD付きという至れり尽くせりの良書でございまして、このCDを車で流すわけですね。最初のうちは面白がってくれていた妻にもやがて「別のにして」と言わせてしまうほどに愛聴したものです。
 女性の声が「譜例135 …a…b…c…d…」と淡々と読み上げた後に、それぞれ特殊奏法「のみ」を演奏してくれるというような部分もあるので、そりゃ嫌になるだろうと今では思います。

 そして、近衛秀麿編の「越天楽」ほど、私の「邦楽器の響きの西洋楽器による模写」という耳目を拡げてくれたものはございません。私の根深いファンの方がいたとして過去に「推古天皇」で見せたようなアイデアは明らかに近衛先生から根を張っているのです。

 

 さて、モーリー・イェンストン氏の楽曲中に、明らかなる「和」を感じたのが、言わずもがな「露の世は」です。こちらはメロディラインは勿論のこと、歌詞の嵌め方も彼によるものです。(基本的に他の楽曲でも原形がある限り余程のことがなければ旋律線には触っておりません)
 この句から全てが始まっているという事を考えなかったとしても、相当気合を入れて書いたのがこの一曲からひしひしと伝わり、フレーズの末尾では瀧廉太郎の「荒城の月」問題とはまた違う、明らかなる意志を持った導音の操作をしていて、「和」に寄せてきたぞ!という感じ。
 幸いな事に、現代でもリプライズされる事になったので、過去の明らかなる「和」の時には、西洋が薫って来そうな部分でそれを少々抑え、逆に現代ではその部分はそのまま活かし……と、余す事なく「元の状態」を見せられる事になりました。

 明らかなる異彩を放っていた「露の世は」が当然、過去の日本に置かれ、その近辺に過去の日本……弥太郎のお母様の歌う設定なので日付的にはもっと過去に歌われる、という楽曲がもう一つありました。
 こちらは元々「過去でも現代でも」という想定で書かれていたのか、かなり隣接した所にリプライズがあり、最初の段階では全く同じ譜面 (もちろん後から編曲で変えるとしても、ピアノと歌のみの情報しか来ていないので、伴奏は同じ形で歌詞だけ違う) を連続してやる事になっていました。

 それは流石に、と思って試しに過去日本で先に歌われる回を思い切って和の旋法で書き換え、伴奏もそれに準じて和のセンスに寄せてみた所、めでたく採用となりました。その後、本来の形でやるはずだった現代での歌唱が無くなり、個人的に「逆リプライズ」と呼んでいた状態は消えてしまいましたが、その代わり、アントラクト冒頭やカーテンコールでオーケストラが原形を朗々と演奏しております。

 また、一つ前の記事で「過去パリでのクラリネットの使用も許可した」と書きましたが、その割に過去の日本では絶対にバスクラリネットは必要だろうと考えていました。
(叶うならばファゴットも、と思いましたが流石に人数オーバーでした。今思えばそれで良かったのですが。笑)
 昔の日本を表現するのにバスクラネットが必要だとどうして思ったのか、自分でも分かりません。ただ、そういう聴覚は例えば日本の作曲家がこれまでに残してきた音楽を聴いた経験から来ているのでしょう。
 コーラングレも同様の理由で過去日本で良い働きをしてくださっています。数多ある日本の音楽(映像に付随するものも含む) の知恵を遠慮なくお借りしたなぁという気持ちです。

 和楽器の使用はしないと決めた事も書きましたが、和楽器的な書き方 (しかし特殊奏法ではない、というのがミソ) は積極的に行なっており、特に遊郭が出現するアンダースコア近辺は、日本の笛のような前打音であったり、私の大好きな笙の響きを模した和音を用いたりしています。
 また、ドビュッシーが北斎の絵からインスピレーションを受けた楽曲との被りを恐れずに書いたモチーフもあり(これまたカットになった楽曲のメロディでもあるので、良いのです。笑)、短時間ながら「和」に拘泥した時間となっております。